【環境ミニ講座7.1】 人・社会・そして自然

2023/3/2511


人は社会と自然(生物圏)の二つの環境に支えられている(図1)。自然は有限であるから、とうぜん社会も人も有限である。しかしながら、この「有限」を受けいれたくない人が多い。政財界は経済の「無限」の右肩上がりを盲信している。

ノーベル経済学賞受賞者R. M. Solowも技術進歩による内的生長を強調し、「他の要素に代替できるなら、経済発展は自然資源が無くとも可能」としたが、後に撤回している。




1.人は社会と自然環境の主体であり、これらの環境と一体化している。

 

さらに、人が環境の主体であることも理解されていない。主体がなければ環境を考える必要はない。それにもかかわらず、人が環境問題をおこしていることに気づくと、議論を乱す人がいる。 「人がいなければよいのだ」。

 

青酸カリを餌として増殖する細菌がいる。それにもかかわらず、青酸カリは「猛毒」であるという。このとき、主体である「にとって(猛毒)」が省略されている。酸素は植物にとってごみである。だから吐きだすのである。それにもかかわらず、酸素は資源であるという。このときも、「人にとって(資源)」が省略されている。このような省略は環境の議論のときにはひんぱんに行われる。それは環境の主体が「人」であることをアプリオリ(先天的) な共通認識としているからである。人の生存を最優先していながら、たとえば、「人中心主義」か「自然中心主義」かは「問い」にはならない。

 

「各人がごみを出さないようにライフスタイルを改めねばならない」のような訓告はあまりにも皮相的である。人の生活は社会の生産・消費と強く一体化しているから、ごみを出さざるを得ない社会の消費システムの改革が先ではないか。また、「児童手当を支給する」のような「少子化」への対症療法にはほとほとあきれる。人は過労死、サービス残業、解雇の不安、不透明な未来などと一体化している。このような子育てを困難にしている社会問題の解消が先だろう。解消なくして実効性のある「少子化対策」はありえない。  

 

 

 

 

【コラム7.11)金の延べ棒と水筒の水とどちらを選ぶ?

あなたが札束に埋まるほどお金持ちであっても、社会や自然環境が崩壊したら、札束はせいぜい熱量の低い「薪」でしかない。このように環境と一体化しているのは人だけではない。すべての財や要素も環境と一体化している。したがって、これらの価値は絶対的ではなく、環境との相互作用で変化する。

「金の延べ棒と水筒のとどちらかを選べ」と言われたら、あなたはどちらを選ぶ? ……サハラ砂漠のど真ん中をさまよっていても?

 

2今までもこれからも人間中心主義である   

 地球温暖化は人間が起こしているから、「人間中心主義をやめよう」という。

ところが、地球が温暖化すれば喜ぶ生物は無限にいる。それなのに温暖化はダメという。これは人にとって不都合であるからである。すなわち、すでに人間中心主義で考えている。  

上述の青酸カリは猛毒も同様である。

なお、生物多様性を重視するのは、多様な生物の存在が人間の生存、豊かさに不可欠であると考えるからである。これもすでに人間中心主義である。

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